ナトリの歴史
About
明治創業の歴史と実績。
ナトリ株式会社は、明治17年「北のウォール街」から誕生し、以来140年間北海道の発展と共に歩んできました。
現在は、太平洋セメントグループの建設資材専門商社として、「街づくり・生活環境づくり」に向けて、地域に密着した企業として、北海道の発展に貢献してまいります。
History
ナトリ株式会社140年のあゆみ
弊社は明治17年(1884年)に名取高三郎(甲州出身)が縁者から小樽の金物店の経営を任されて以来、幾多の困難に遭遇するもこれを乗り越え、2024年、創業140周年を迎えることが出来ました。これも偏にお得意様をはじめとするステークホルダーの皆様のご支援の賜物であり、この場を借りて厚く御礼を申し上げます。
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SECTION01
明治の創業期
北海道の開拓事業と共に発展した小樽で財を成した
- 明治17年(1884年)
- 名取高三郎が小樽市に於いて金物店を委託され経営を始める。後年㊤の屋号のもとに色内町に「名取商店」を開く
- 明治33年(1900年)
- 小樽に電話局が開設され「電話番号1番(小樽)」を取得する
- 昭和35年(1960年)
- 「株式会社 名取商店」に改組
- 明治39年(1906年)
- 小樽市色内町に店舗・倉庫を新築する(現・小樽支店/小樽市歴史的建造物指定)
- 明治43年(1910年)
- 北海道セメント(現・太平洋セメント(株)上磯工場の前身)と販売契約を締結
- 大正6年(1917年)
- 浅野セメント(株)北海道支店(現・太平洋セメント(株))と販売契約を締結
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SECTION02
戦後の高度成長期から円高不況時までの弊社成長期
札幌に本社を移転し、セメント生コンのみならずガラスサッシや鋼材も併営する建材の総合商社として全道に販売網を展開
- 昭和35年(1960年)
- 株式会社名取商店に改組
- 昭和38年(1963年)
- 本社機構を札幌に移す函館支店を開設
- 昭和46年(1971年)
- 本店所在地を小樽市より札幌市に変更
- 昭和47年(1972年)
- 名取合名会社を合併し、同時に社名を「ナトリ株式会社」とする
- 昭和52年(1977年)
- 旭川支店開設
- 昭和58年(1983年)
- ナトリ本社ビル新築に伴い現在地に移転
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SECTION03
事業再編期
太平洋セメント(株)の連結子会社となり、現在は札幌本社、小樽本店、函館支店、旭川支店の4事業所体制を敷き、主に旭川を含む道央及び道南地域で太平洋セメントグループの製品を主力として各種建設資材の販売する
- 平成20年(2008年)
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太平洋セメント(株)連結対象子会社となる
青函生コングループ(函館)商社「株式会社アクト」と合併 - 平成21年(2009年)
- 平産業株式会社と合併
- 平成24年(2012年)
- 本店所在地を小樽市に変更
- 平成27年(2015年)
- 創業130年を記念して、「130周年特設ページ」を開設する
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【1】名取高三郎の来樽
初代、名取高三郎は安政五年十月二日山梨県の農家に生まれた。
水晶とブドウしかとれぬ甲州農家は貧しい家が多く、高三郎も水呑み百姓をやめてなんとか金をためたいと考えていた。
後の㊤今井商店の店主となった人で北海道の金物業の草分けである叔父今井喜七に従って金物商に精をだすようになった。
明治八年正月、三百石の弁財船で新潟から寿都に渡った。その頃内地から北海道へ渡ることは容易なことではなかったのである。山梨県から三条燕の金物産地で仕入れをして新潟へ出て船で北海道へ渡るのであるが、途中能代沖で暴風にあったり、寿都沖で難破して木板につかまって岸に泳ぎつくなど幾度も生死の境を経たとの事である。
【当時、冬の日本海の怒涛にもまれて来道したときあまりにも激しい船酔いで「いくら金が儲かってもこんな苦しい目にあうのは嫌じゃ」というと叔父は「金銭は危ないところにしかない」ときめつけたという。】
明治12年に今井喜七はこの店を高三郎に預けて帰郷し時折来樽して店を看る状況であった。高三郎が店を営んで居る間には明治14年5月22日小樽の大火があり、585戸が焼失して同店も倉庫のみを残して全焼した。
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【2】伯父との契約による店の経営
以上のように災厄に遇いながらも高三郎はよく店を守り商売を伸ばして来た事から明治17年伯父今井喜七はこの店を一切高三郎に任せる事となった。その方法として次のような約定書を交わした。そして始期資本を定める為に厳格な棚卸をしたのである。その内容は、
- 資本金には年1割2分の利息を払うこと。
- 利益のある時は諸経費を差し引いた残りを折半すること。
- すべての保証や借金をせぬこと。又無尽に加入しないこと。
- 絹布を着ざること。但し礼服にはこの限りにあらず。
- 世間との交わりは懇篤すること。
などであったと言われる。
※契約書は、商契約と家憲の戒めとを兼ねていた。かくして高三郎には経営の一切をまかせられ、堅く約定を持って業績の発展向上に努めた。名取高三郎の創業はこの年に始まると考え、二月一日を当社創業とする。
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【3】高三郎の独立自営
高三郎は、明治17年、叔父今井喜七との約定書締結後、現在のフランチャイズ経営を行った。
当時、本道の金物商は越後系と甲州系の二派に分かれているが、その後も甲州人は続々と来道して今井商店から鋸を買って道内各地を行商して歩き、やがて函館・室蘭・釧路・北見などに落ち着いて店を構えた。
明治三十一年、今井喜七氏の継子善一氏が来樽し、二代目今井喜七商店となった。
この年高三郎は独立して小樽市色内町に店舗を構えた。今井商店は㊤だったから主家の屋号に一の字をひいて㊤一の屋号とした。渡道して二十三年後である。
明治37年には小樽大火があり被災家屋が2481戸とあり、同年には小樽函館間の鉄道開通と災害と開拓が相交錯する中で明治39年3月色内町紗見川沿に土地700坪を購入し新店舗と倉庫を新築した。
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「電話壱番」
その昔、第一銀行(現・みずほ銀行)小樽支店が店名にふさわしい「一番」の電話番号を入手しようと、大枚一万円(現在の価値で約1,500万円)を積んで交渉に及んだ。
しかし「いかに大金を積んでも手放さぬ」と取り合わなかった持主。
それが当社の創業者「名取高三郎」である。小樽に電話が開通したのが、明治33年4月1日。
その前の年、明治32年秋のこと、大雨の降りしきる中、店舗の向かい角の小樽電話局前で工夫たちが何かの準備をしていた。聞けば「小樽で初めて開通する電話の申込が明日から始まる為の準備だ」という。早速、高三郎は従業員を集め炭火をおこし先頭に並ばせた。コモかぶりの四斗樽とスルメを差し入れ労をねぎらい、果たして念願の「一番」を手にする事が出来たという。電話なんかつけたらうるさくて商売も出来ないと本気で考えている人がいたり、『あんたの所はただの一番。ウチは「しじゅうイチバン」(四十一番)』と悔しがる人がいたりと時代を反映するエピソードも数多く残っている。
また、先代が亡くなった時、相続税で「一番」の加入権を『50万円』(通常の10倍)と評価され、さすがに弱ったというエピソードもあり、非常に高く評価されていたことが窺い知れる。
山梨県出身の高三郎は、北海道の金物業の草分け的存在である叔父・今井喜七商店から明治17年に独立し屋号を○上とした。今井喜七商店の屋号は○上であり、それに「一の字」をひき自分の屋号としたといわれる。
電話番号「一番」にこだわった由来であるのかもしれない。携帯電話が普及している昨今、固定電話の必要性も無くなってきている時代ではあるが、先人たちが守り続けた「電話壱番」を、ナトリ株式会社130年の歴史とともに10年後20年後も語り継いでいければと思う。
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現 ナトリ株式会社 小樽本店・大正ガラス館
明治39年3月着工、同年12月引き渡し、工事費 工事請負人不明、札幌軟石使用
色内大通りに面して、店舗(石造)、住居(木造)、1号倉庫(石造)、2号倉庫(木造)、3号倉庫(石造)の計5棟が縦1列にならんでいた。(現在は石造3棟)
角地に立ち、西側と南側に開いた形で、防火のためのうだつを設けています。
一階鋳物鉄柱(屋号入り)、二階はトラス構造であり中間柱がない。